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最高裁判所第二小法廷 昭和30年(オ)249号 判決 1957年2月08日

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人小林弥之助の上告理由第一点について。

第一審における被告人大久保真太郎(被上告人)に対する臨床訊問が途中で、立会の医師の勧告によつて打ち切られ、上告人側に反対訊問の機会が与えられなかつたことは、所論のとおりである。

しかし、右の場合、裁判所が本人訊問を打ち切つた措置を違法と解し得ないことは、民訴二六〇条の趣旨からして当然であり、その後、再訊問の措置を採らなかつたのも、右本人の病状の経過に照らし、これを不相当と認めたためであることが、記録上窺い得られるところである。従つてこのように、やむを得ない事由によつて反対訊問ができなかつた場合には、単に反対訊問の機会がなかつたというだけの理由で、右本人訊問の結果を事実認定の資料とすることができないと解すべきではなく、結局、合理的な自由心証によりその証拠力を決し得ると解するのが相当である(なお、上告人が第一、二審において異議を述べ、または被上告人本人の再訊問を申請したような事実は記録上認められない)。しからば、原判決には所論の違法はなく、論旨は採用し難い。

同第二点について。

理由齟齬をいうけれども、その実質は、原審の適法になした証拠の取捨、事実認定を非難するに帰し、採用できない。

同第三点について。

所論は、原審口頭弁論終結後に生じた事実を前提とするもので、採用に値しない。

よつて、民訴四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官小谷勝重の左記少数意見を除き、裁判官一致の意見で、主文のとおり判決する。

裁判官小谷勝重の少数意見(論旨第一点に対する)は次のとおりである。

民訴二九四条一項(同三四二条により当事者訊問に準用)の反対訊問権は、主訊問による供述とは異なつた、或はそれとは全く正反対な供述、偽証の露呈並びに供述の信憑性を明らかにせんこと等を目的とするものであるから、反対訊問の機会を与えない供述は、その後の再訊問と相俟つか、または反対訊問権者において積極的にその訊問権を抛棄したものと認められる場合でない限り、主訊問による供述だけでは、一方的な訊問でいまだ完結しない、供述としては未完成なものと解すべきであり、したがつて該供述はいまだ裁判の資料となし得ないものと解するを正当と考える。そして本件の場合、反対訊問権者たる上告人において積極的に反対訊問権を抛棄したものと認められる資料は記録上窺い得ないのである。されば論旨は理由があり、右供述を証拠に採つた原判決はこの点において破棄を免れないものと思料する。

なお、多数意見中「なお上告人が第一、二審において異議を述べ、または被上告人本人の訊問を申請したような事実は記録上認められない」との括弧内の判示は、その趣旨(1)上告人において、反対訊問の機会を与えられず、したがつて本件訊問の結果は証拠資料たり得ない旨の異議を述べない限り、責問権の抛棄として裁判所は該供述を証拠とすることができるとの趣旨の判示と解せられるのであるが、多数意見も判示する如く、本件の場合の訊問の打ち切り及び裁判所が職権(民訴三三六条)による再訊問の措置を採らなかつたことについては何等の違法も瑕疵も存しないのであるから、これを責問権の一事由の場合と解することはできないものと考える。

次に(2)右の如く上告人大久保真太郎のその後の病状の経過に照し民訴二六〇条の趣旨に従つて、裁判所すら再訊問を不相当と認めたくらいであるから、上告人が再訊問の申請をしなかつたのは当然のことであつて、これが再訊問の申請をしなかつたことをもつて、恰かも責問権の抛棄に当るが如く判示することは、わたくしの到底賛同し難いところである。

(裁判長裁判官 小谷勝重 裁判官 藤田八郎 裁判官 池田克)

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